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想像力の衰退と環境ホルモン

環境ホルモンが問題になっています。もともと人や動物の体内には存在しない合成物質が自然界にバラまかれ、ごく微量が体内に取り込まれることによって、ホルモンと同じような作用を及ぼすことがわかってきました。本来のホルモンは体の機能を維持するために働くのですが、ダイオキシンやカップめん容器で問題になっているスチレン類など環境ホルモン(現時点で70種類程の物質が疑わしいとされている)は、人や動物の生殖能力を低下させるなど、重大な影響が指摘されています。「今ごろ急にそんなことを言われても、どうすればいいんだ。」とうろたえるばかりですが、100年後の人類の存続すらおぼつかない話で、恐ろしさを通り越して背筋が寒くなります。

先日、テレビの特集で、いろいろ考え込ませる番組を見ました。沖縄の本土返還が問題になっていた30年前に、渋谷の街角で女性教師が、通行中の若者たちに「沖縄についてどう思うか」という質問をします。聞かれた若者たちの答えは、さまざまですが、少なくとも質問の意味を理解し、自分なりの答えを逃げずに述べています。そんな昔のニュース番組を見つけてきて、その時の女性教師を探し出し、30年後の同じ渋谷の街角で、同じ質問を若者たちにしてもらうという番組です。今の若者たちの答えはご想像の通りで無残なものです。「ワカンナーイ」「カンケーネーヨ」「ナニソレ」などなど若者語のオンパレードです。例によってカメラにVサインする者もいます。当時の10代後半から20代の若者(著者もその中に入る)が、特別社会的関心が高かったとも思えませんが、この30年間の落差は衝撃的でした。いわゆる団塊といわれる世代の30年前とその子どもたちの世代ということになります。「今どきの若い連中は・・・」などと他人事のような呑気なことを言っている場合ではないのです。そのような若者を育ててきたのは、まさにわれわれの世代なのです。仕事にかまけ、社会や政治の問題から目をそらし、家族や地域の問題からも逃げてきたツケが廻ってきたということでしょうか。若者たちの社会的関心の低さは想像力の衰退と言ってもよいと思います。沖縄に基地が偏在し、戦後50年たってもいまだに生活や経済がその影響下にあること本土のわれわれの生活の平穏や安全がそれとどう関係するのか。そういったことに対する想像力のあり様の問題です。

一方、音楽やファッションのジャンルで、優れた感性を持って世界に伍して活躍している若者たちがいることも事実です。建築や街づくりの仕事も、優れて社会 的影響の大きな仕事と言われています。資源の有効利用や環境負荷への考慮、地域社会の活性化にいかに貢献し得る計画になっているかなど、建築という営為に伴うさまざまな社会的影響に対する想像力のあり様が問われています。環境問題、省資源、省エネルギーが叫ばれても、事態はさほど変わってきたとは思えません。ここ30年間につくられた建築や街と若者たちの現在は、まさにパラレルの関係にあるようです。社会的無関心の結果としての建築、街、そして人。確かなもの、後の世に残せるものをつくるという目的意識や方法の共有すら、ほとんどなされてこなかったのではないでしょうか。後に続く世代に、明確な夢や方向性を提示してこられなかったことと同様です。環境ホルモンの恐ろしさは、その影響が出始めて気が付いた時には、回復不能に近いダメージを受けていることです。若者たちに表れている社会的無関心は、人の痛みを感じ取る想像力や、社会的不公正に対して怒る力を奪うホルモンがひそかに作用し、社会の活力を奪っているのかもしれません。戦後最悪の経済不況とそこに至る政治の無策に対するまっとうな怒りの声すら上がってこないこの国の現状も、問題の根っこはすべて一緒のように思います。


建築ジャーナル 1998年 8月号

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2000年2月号
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