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絶対空感

今話題の本「絶対音感」(最相葉月・小学館)を読んだ。“ランダムに提示された音の名前が言える能力。あるいは音名を提示されたときにその高さで歌える、楽器を演奏できる能力”というのが辞書による定義のようである。本書は絶対音感の有無が音楽家になるための必須条件であるかどうかという話から始まる。そして「音楽とは何か」という根元的な問いから、音楽に感動するというのはなぜなのかという話に移り、車の乗り心地を設計する手法として感性工学の話へ飛ぶなど、日本にとどまらずヨーロッパやアメリカの音楽教育や音楽家の話など実に刺激的で面白い「音楽には国境がない」と言われ、今話題のグローバルスタンダードがもともと成立していたという見方もできるし、建築にからむさまざまな話に当てはめてみるとなかなかおもしろい。

日本の建築設計者の能力基準を国際的な水準に合わせようというのが、JIAを中心に議論されている建築家資格の問題である。現在、最大の政治課題となっている金融システムの改革の流れなどとも重なる、日本的システムのグローバルスタンダード化の流れの一環とも言える。ところで建築設計者の能力水準という時に、その基準を設定するのはそんなに簡単なことだろうか。現在の資格制度の議論は大学のカリキュラムおよび修業年限、実務訓練期間、生涯教育など設計能力を技術の領域に限定しているということもできるだろう。

一方でやっかいな問題がある。「良い建築とはどういうものか」というきわめて素朴なテーマに対して、人によって答えがまちまちであることだ。人それぞれの経験と知識、育ってきた環境で異なるであろうし、感性の領域になると問題はさらに複雑になる。快適で気持ちのよい空間、美しい空間、やわらかい空間、感動的な空間などなど、視覚、聴覚、触覚からさらに臭覚、味覚に至る5感すべてに関わる空間のとらえ方は、個人差もあり定量的、定性的に分析することはたいへん困難に見える。

「絶対空感」という言葉が成立すると考えると、それは何だろう。「ある空間を提示された時に、その空間の本質(?)を的確に表現できること。あるいはその空間を設計する能力」とでもいうのだろうか。スケール感、材質感、力感、リズム感、プロポーション感覚、光と陰など、空間を分析的に表現する際に使われる言葉がある。しかし、空間を認識し表現する絶対的基準となる物、あるいは事が存在するだろか。

コンピューターで作曲は可能かを研究している科学者が突き当たる壁が「音楽という物理現象が情動という心理現象に移る接点が、コンピューターでは対処できないこと」だそうである。CADによる建築の設計製図が、いまや当たり前の時代になってきたが、快適な空間や、人を感動させる空間を創造するという、本来 の意味の設計ということでは、コンピューターが人間に追いつくのはまだ先のことのようである。この材料をこういうふうに組み立てれば人を感動させる空間ができる、というような「良い建築をつくる法則」といったものがはっきりすること、人間がどんな建築に、なぜ感動するのかというあたりが解明されれば、コンピューターによる建築の設計も可能になるだろう。

建築や街づくりに対する市民の関心はかつてないほど盛り上がっている。裏を返せば、かつてないほどの環境問題や景観破壊が続発し、市民がやむにやまれず身近な環境に目を向け始めたという側面も否定できない。少しでもより良い生活環境を市民の手に取り戻すためには、建築設計や街づくりの専門家と市民の間に、良い建築や良い街並みについて語り合える共通の言葉を見つける必要があるだろう。建築家資格の問題も、そのような視点から市民の批判のフィルターを繰り返し通す必要があるように思う。「絶対空感」という妙な造語も市民と専門家の議論のきっかけとして役立てばおもしろいのだが。


建築ジャーナル 1998年 11月号

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「アジアの街で考えたこと」
建築ジャーナル 2000年11月号
「実感に裏付けられた自然観を」
建築ジャーナル 2000年7月号
「再び都市へ」
JIA機関誌 Bulletin 2001年5月15日号
「医師、弁護士、建築士」
建築ジャーナル 2000年3月号
「デラシネ建築家からコミュニティー建築家へ」
東京自治問題研究所 月刊東京
2000年2月号
「建築家は裸の王様か」
建築ジャーナル 1999年11月号
「公共意識の希薄化と新しい絆の回復」
建築ジャーナル 1999年8月号
「建築設計者は誰の味方か」
建築ジャーナル 1999年5月号
「不景気の極みの今こそ」
建築ジャーナル 1999年2月号
「絶対空間」
建築ジャーナル 1998年11月号
「想像力の衰退と環境ホルモン」
建築ジャーナル 1998年8月号
「あらゆる建築物は残すに値する」
建築ジャーナル 1998年4月号