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再び都市へ

「都市」についてまともに考えることを、ずっと怠ってきたように思います。 新しい都市論や都市デザインが建築家によって次々に発表された1960年代の後半に、そんな建築や都市の魅力に惹かれて学生になりました。新しく出来たばかりの学科で夢を見たのは、ほんの一年程で、3年生の夏には激しい学園闘争が始まり、その渦の中で関心はむしろ社会的問題にうつっていったように思います。当時、四日市の大気汚染裁判や水俣の公害反対運動など、高度経済成長の歪みが都市問題として各地で噴き出してきた時代でした。産業優先の都市づくりや、用途地域制度などの近代計画理論の限界が明らかにされた時代といっても良いでしょう。

建築や都市工学という、工学の中では最も社会性を要求される領域を選びとった研究者や学生は、自分達の立脚点や将来の在り方について、結構大まじめな論議をしていたように思います。そんな議論の中で、美しい未来都市モデルやイメージがリアリティのない空虚なものに写ったのは仕方のないことだったと思います。卒業に当たって建築や都市にサッサと見切りを付けて高校の先生になったり、家業の味噌屋を継いだものもいます。ゴミの問題や地域行政に取り組むために地方自治体に入った奴もいますし、中央官庁や大学に残ったものを除いた少数の人間が、それでも夢を捨て切れずに都市系のコンサルや建築設計事務所に就職しました。

私は恩師の大谷先生の事務所に拾って貰いました。「建築」という雑誌に大谷さんが発表した「URBANICS試論」という論文で、当時主流であった、都市を鳥瞰的に絶対者の視点からデザインする方法に異論を唱え、個々の建築の集合体として都市を捉える虫瞰的・市民的視点からの都市作りの方法を提唱していました。その方法論に強い示唆を受けたことと、都市を構成する基本単位としての建築の作り方を、先ず身に付けたいと思ったためでもあります。

以来30年が経ちましたが、都市設計の有効な手法が提起されたり、法制度が整備されたということは、少数の例を除いてなかったように思います。

先祖以来その土地に住んでいる人の他にも、様々な動機や理由で人々が集まっているのが都市です。これら多様な人々で構成された地域や街を、ある特定のビジョンや目的で方向付けるためには、そこの住民が共感できる動機付けが必要になります。個人の私権(財産権以外にも、プライバシーや環境権のようなもの)の尊重が原則ですから、道路一本通すためにも、その計画に影響を受ける人達との調整が必要になります。都市計画や街づくりとは、結局のところ個々人の権利同士や公共の利益とのぶつかり合いを調整する手段といってもいいと思います。

その公共性の意味や事柄が時代とともに変わってきているように思います。多くの市民は、阪神淡路大震災によって既存の都市の危うさを思い知らされましたし、バブル経済による私権の異常な暴走と破綻による都市や環境の破壊のひどさを見てきました。また丸ビルや青山同潤会の立替計画に見られるように、自分達が慣れ親しんできた風景が所有者の恣意によって、いとも簡単に壊されてしまう理不尽さなど、貴重な体験をすることによって、街づくりの重要性に目を向けるようになってきました。

自分達の暮らす地域や街を、誇りと親しみの持てる安全な場所にしていくために、自分達の権利の一部を制限したり、公共のために提供したりするような新しいルールを、市民が主体的に作る事ができるかどうかが、街づくりの成否を分けると思います。個々の建築を建てる際の周辺地域に対する配慮に始まって、市民が共感できる地域や街の未来図を描く事によって、新しい街づくりのルールを導き出す事が、今我々専門家に求められているように思います。


JIA機関誌 Bulletin 2001年 5月15日号

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「アジアの街で考えたこと」
建築ジャーナル 2000年11月号
「実感に裏付けられた自然観を」
建築ジャーナル 2000年7月号
「再び都市へ」
JIA機関誌 Bulletin 2001年5月15日号
「医師、弁護士、建築士」
建築ジャーナル 2000年3月号
「デラシネ建築家からコミュニティー建築家へ」
東京自治問題研究所 月刊東京
2000年2月号
「建築家は裸の王様か」
建築ジャーナル 1999年11月号
「公共意識の希薄化と新しい絆の回復」
建築ジャーナル 1999年8月号
「建築設計者は誰の味方か」
建築ジャーナル 1999年5月号
「不景気の極みの今こそ」
建築ジャーナル 1999年2月号
「絶対空間」
建築ジャーナル 1998年11月号
「想像力の衰退と環境ホルモン」
建築ジャーナル 1998年8月号
「あらゆる建築物は残すに値する」
建築ジャーナル 1998年4月号